ブックタイトルちびっこぷれす Chibikko press 2016年12月号 NO.211

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概要

ちびっこぷれす Chibikko press 2016年12月号 NO.211

5神奈川県生まれ。幼稚園・保育園での勤務を経た後、2007年に北杜市で「森のようちえんピッコロ」をスタート。以来、森のようちえんの活動を実践し続けている幼児教育の専門家。自然の中で〝子どもたちが自分で考え、自分で決める?保育スタイルが注目を集める。現在、園児募集中!れはだめだよ」「嫌いなものをあげちゃ」と、口々に一喝された。年長児ともなれば、教えてなくても嫌いなものをあげるのはよくない理由はわかっている。すると年長児が「さ、行くよ」と言った。どこに?と思ったら、こんにゃくをくれた人に一緒に謝りに行くということだった。なるほど、と思ったら、中島のところへ彼を連れてきた。「あれ、私こんにゃくあげてないよ」と言ったら、「でも嫌な気持ちがしたでしょ」と。あ~(子どもは私の上を行く)。私に謝ってからこんにゃくの持ち主に謝った。この一連の出来事、私は怒っていない。ただこんにゃくを返し、自分の気持ちの話をしただけだ。それで年少児さえも「いけないことをした」とわかる。その行為がどんなにダメなことかと怒る必要がない。その子は年少児なので具体的な理由はわかってなかったかもしれない。ただ嫌いなこんにゃくをあげたとき、心の何かが違ったのか。だから返された途端に泣いたのではないか。これは彼に感じる心や想像力があるからだと私は思う。待つとそれらが育つ→すると極端に怒らなくても子どもはわかる→なのでしつけが最小限になる、という構図であり、しつけたいから→待つということではない。クーヨンの誌面で中島は「しつけとはしつけをする大人の心の問題かな」とつぶやいているが、これはこんにゃくをくれた時の私の態度だとも思う。もしも大人がこの場面で「子どもに寄り添う」というスタンスをとって、嫌いなこんにゃくを人にあげてしまう行為を流していたら、彼は何を学んだのだろう。 ピッコロ保護者がよく言うことがある。悪いことをしたとき「あれ?」と言うだけでわかると。その後は自分で反省するのだ。何が悪かったのかがわかり、3学期にもなれば年長児は「自分は自分で育てる」と言うようになる。親でも中島でもなく、自分を見ながら自分で育っていける。そんな自由がここにはある。 ちなみにその弁当は翌日見つかった。戸外に置いてあったので、何かの動物(イタチやネズミ?)が縁の下に引っ張り、そこにあったのだ(噛み跡と毛がついていた)。弁当はとてももったいなかったけれど、子どもたちの何かが育った。森の神様のやり方だと思った。